三國連太郎さんの若い頃には、波乱万丈の人生が詰まっていました。
当記事では、16歳での密航や戦争体験、俳優デビューのきっかけとなった出来事など、彼の若い頃のエピソードを詳しく解説しています。
当記事を読めば、三國連太郎さんの若い頃の波乱の人生と、俳優としての成功の背景を知ることができますよ!
当記事で主に以下の内容をまとめています。
- 三國連太郎さんが俳優デビューするまでの波乱万丈な人生がわかる
- 若い頃に中国への密航や戦争体験を経たエピソードを知ることができる
- 俳優デビューのきっかけと、芸名「三國連太郎」の由来がわかる
- 20〜30代の主な活動や、俳優としての挫折と成功を知ることができる
- 若い頃の役作りに対する徹底的な姿勢と、その影響がわかる
三國連太郎の若い頃:主な活動歴や受賞歴
20〜30代の活動:苦難と俳優への道
20〜30代の主な活動
西暦(年齢) | 主な活動歴 |
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1950年(27歳) | 東銀座で松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされる |
1951年(28歳) |
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1952年(29歳) |
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1955年(32歳) | 日活と専属契約を結ぶ |
1956年(33歳) |
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1957年(34歳) | 石原とし子さんと結婚(3度目の結婚) |
波乱の青春時代
三國連太郎さんの青春時代は、まさに波乱万丈でした。
静岡県の伊豆で育った彼は、複雑な家庭環境に馴染めず、旧制中学時代に大きな決断をしました。
父親の暴力から逃れるため、三國さんは16歳で船に潜り込み、中国の青島へ密航したのです。
これは彼の人生を大きく変える冒険でした。
その後、満州や朝鮮半島を転々とし、様々な経験を積みました。
弁当売りや皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工など、多くの仕事を経験しながら生き抜いたのです。
戦争の影も三國さんの青春に暗い影を落としました。
召集令状が届いた時、彼は戦争に行きたくないという強い思いから、佐賀まで逃亡を試みました。
しかし、結局は捕まり、中国へ出征することになったのです。
「戦争で中国から引き上げてきた時、木下恵介監督と偶然出会わなければ、今の私はなかったかもしれない」と三國さんは後年語っています。
破戒(1962) #人種差別を考える映画
直球のこれを忘れてた。市川雷蔵の苦悩、三國連太郎の先生が物悲しい。三國がこの役をやる重み。リメイク版(2022)も良かったですよ。木下恵介版(1948)は見れてないけどU-NEXTにある pic.twitter.com/JwovZuO9DF— 夕街昇雪☕大阪義体遊🍵秋🏳️🌈けんかはよせ、はらがへるぞ🪧☮🎗🍀 (@ugainovel) March 23, 2024
稲垣浩の言葉 ーー三國連太郎
…クセのある俳優と言えば三國連太郎にとどめを刺すだろう。彼は戦後、木下恵介君の下でデビューした…彼はとうとう松竹を飛び出して僕のところへ来てしまった。松竹は折角育てあげた新人が逃げ出したので追い回した。東宝は連ちゃんが捕まらぬようにと…隠し歩いた。 pic.twitter.com/7KWr1jWjFQ
— 夢郎(ぼうろう) (@FrTaxz) May 20, 2024
この出会いが、彼の人生を俳優という道へと導いたのでした。
このように、三國連太郎さんの青春時代は、苦難と冒険に満ちていました。
しかし、これらの経験が後の演技力や人間性の深さにつながったと言えるでしょう。
俳優デビューと芸名の由来
1950年、27歳の三國連太郎さんの人生が大きく変わる出来事がありました。
東銀座を歩いていた彼は、松竹のプロデューサー小出孝さんにスカウトされたのです。
三國さんは当時、「電車代と飯代を出してくれるなら」という条件でカメラテストを受けることに同意しました。
この率直な態度が、後の三國さんの芸風を象徴しているようで興味深いですね。
翌年、木下恵介監督の映画『善魔』で俳優デビューを果たします。
ここで興味深いのは、三國連太郰という芸名の由来です。
この名前は、デビュー作『善魔』での役名をそのまま芸名にしたものだったのです。
『善魔』(1951) ☆ 三國連太郎氏 pic.twitter.com/zEuRNSPujo
— Jack a Daddy (@Jack_A_Daddy1) April 14, 2024
○三國連太郎の言葉
会社は僕を商品だと思っているようですけれど、僕は息をしている人間なのですから、好きなものは好きで、いやなものはいやだと言いたい。
1951年松竹から「善魔」でデビューしたが、そこを飛び出し東宝にはいる。が、また飛び出し東宝パージとなる。日活へ、56年フリーへ。 pic.twitter.com/BlNWURAEIU
— 夢郎(ぼうろう) (@FrTaxz) November 29, 2022
デビュー作での演技が評価され、三國さんはブルーリボン新人賞を受賞します。
これは、彼の俳優としての才能が早くも認められた証でした。
しかし、デビュー当初の三國さんの経歴には、多くの嘘が含まれていたそうです。
本名、生年月日、身長、体重以外はほとんどが事実と異なっていたのだとか。
三國さんは、これを「役者の象徴」として平然と受け入れていたといいます。
「映画界に入った当初は、自分の過去を隠すことに苦労しました。でも、それも演技の一部だと思えるようになりました」と三國さんは後年語っています。
このように、三國連太郎さんの俳優デビューは、偶然の出会いから始まり、芸名の由来にも彼らしさが表れています。
嘘の経歴を背負いながらも、その才能で頭角を現していった姿は、まさに波乱万丈な俳優人生の始まりだったと言えるでしょう。
映画界での評価と挫折
三國連太郎さんの20代後半から30代にかけての活動は、評価と挫折が交錯する時期でした。
デビュー作で新人賞を受賞した三國さんは、その後も個性的な演技で注目を集めます。
1952年、東宝の稲垣浩監督作品『戦国無頼』への出演オファーが舞台裏で話題になりました。
しかし、この出演をめぐって三國さんは大きな決断を迫られます。
当時、松竹と正式な契約を結んでいなかった三國さんは、自ら東宝作品のクランクインに参加してしまったのです。
この行動により、三國さんは「五社協定違反者第1号」という烙印を押されました。
松竹大船撮影所の門扉には「犬・猫・三國、入るべからず」という看板まで掲げられたといいます。
三國さんは後年、この時のことを振り返ってこう語っています。
「当時は義理人情を欠く『アプレ・スター』と叩かれました。
でも、自分の信念を曲げずに行動したことは後悔していません」
この出来事は三國さんにとって大きな挫折でしたが、同時に彼の芯の強さを表す出来事でもありました。
その後、三國さんは日活と専属契約を結び、1956年には『ビルマの竪琴』に出演。
テレビをつけたら佐藤浩市が出てて、白黒映像だったので「回想シーンだな」と思って見てた。
よく見たら『ビルマの竪琴』だった。
三國連太郎だった。
思ってる以上に、ものすごい似てた。びっくりした。ビルマの竪琴 日本映画専門チャンネル https://t.co/KRns9AmJb2 pic.twitter.com/gBiNlTQlyA
— こたの🌿🌟🍒 (@kodaoo) August 15, 2017
1956年 まだ戦後10余年、戦時中の記憶が鮮烈に残る中、三國連太郎氏はビルマの竪琴で役を演じたという。
復員船でのシーンでは自身の体験と重なり、涙を流す姿は役者ではなく、まさに本物の復員兵であった。あの時代、あの戦争を体験した人だからこそ、あの映画が出来たのだろう。 pic.twitter.com/Ttl1qPztHo
— コバさん@模型を作るフレンズ (@Kudryavka501) April 23, 2018
この作品で三國さんの演技力が再び高く評価されます。
このように、三國連太郎さんの20代後半から30代の活動は、評価と挫折を繰り返しながらも、自身の信念を貫き通した時期でした。
この経験が、後の三國さんの俳優としての深みを生み出したと言えるでしょう。
40〜50代の活動:名優への道のり
40〜50代の主な活動
西暦(年齢) | 主な活動歴 |
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1962年(39歳) | 小林正樹監督の『切腹』に出演(カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作品) |
1963年(40歳) | 映画会社「日本プロ」を設立、『台風』を企画・監督するも公開中止 |
1965年(42歳) |
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1968年(45歳) | 今村昌平監督の『神々の深き欲望』に出演 |
1969年(46歳) | プロダクション「APC」を設立、テレビ映画やCM制作を手がける |
1972年(49歳) | 自主製作映画『岸辺なき河』の撮影を開始するも未完に終わる |
1976年(53歳) |
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1979年(56歳) | 『復讐するは我にあり』に出演 |
代表作と演技力の評価
三國連太郎さんの40代から50代にかけては、その演技力が高く評価され、数々の代表作を生み出した時期でした。
1962年、小林正樹監督の『切腹』に出演した三國さんは、井伊家の家老・斎藤勘解由役を演じました。
一秒もだれない緊張感。
仲代達矢さんと三國連太郎さんのがっぷり四つの迫力、更に撮影、美術、音楽、どれもが本当に美しい。
武士道をテーマにしながらカタルシスは皆無。
その欺瞞を見事に描いた脚本、橋本忍先生の筆の冴え。
日本人の精神構造にまで触れている、その深みに驚愕です。 pic.twitter.com/Q8a2dlLErH— たにもと@映画垢 (@tanimon1973) December 16, 2023
この作品は第16回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞に輝き、三國さんの演技も国際的に注目されました。
1965年には、内田吐夢監督の『飢餓海峡』に出演。
この作品で三國さんは第20回毎日映画コンクールで男優主演賞を受賞しています。
三國さんはこの作品について後年こう語っています。
「『飢餓海峡』は私の代表作の一つです。人間の苦しみや葛藤を表現することに全力を注ぎました」
1968年には、今村昌平監督の『神々の深き欲望』に出演。
この作品で三國さんは、複雑な心理を持つ主人公を見事に演じ切りました。
「役者は、人間の本質を表現する使命があります。それは時に苦しく、痛みを伴うものですが、その過程こそが演技の醍醐味なのです」と三國さんは当時を振り返っています。
1970年代に入ると、三國さんの演技はさらに深みを増していきます。
1976年の『犬神家の一族』、1979年の『復讐するは我にあり』など、様々なジャンルの作品で主演を務め、その演技力の幅広さを示しました。
「業の深い人間を演じさせれば右に出るヤツぁいねえ」の三國連太郎。
隠れ切支丹の家系で連続殺人犯(緒形拳)の父親役。緒形が嫁(倍賞美津子)との関係を怪しむのに、斧を持ち出しいっそ自分の頭を割れと詰め寄る。割ったらぁと緒形。濃厚すぎて胸焼けするけど、名シーンよな。😅『復讐するは我にあり』 pic.twitter.com/6ZEM6YZG4L— マキオはNMBが大すこ。 (@unison_makio) May 12, 2021
このように、40代から50代にかけての三國連太郎さんは、日本映画界を代表する俳優として確固たる地位を築きました。
彼の演技は、人間の複雑な心理や社会の矛盾を鋭く描き出し、多くの観客の心に深い印象を残したのです。
役作りへの徹底的な姿勢
三國連太郎さんの40代から50代にかけての活動で特筆すべきは、役作りへの徹底的な姿勢でした。
彼の役へのアプローチは、時に常識を超えるものでした。
例えば、1957年の映画『異母兄弟』での役作りは、業界に衝撃を与えました。
家城巳代治監督『異母兄弟』。三國連太郎の軍人が、女中の田中絹代をレイプし、醜聞隠しのために後妻とするが、生まれた子供共々虐待を続けること二十数年。田宮虎彦原作は『足摺岬』も陰鬱だがこちらはもう悪夢レベル。 #私が好きな暗い映画 pic.twitter.com/zLAkafqoEL
— ホッタタカシ (@t_hotta) April 9, 2015
家城巳代治『異母兄弟』(1957年)の三國連太郎 #映画に出てくる父親 pic.twitter.com/GX30MDEm0p
— maggot brain (@yossan050) May 30, 2023
三國さんは役のために、健康な前歯を全て抜いてしまったのです。
しかも、治りを早くするためだと言って、麻酔なしでの抜歯を選択したそうです。
この極端な行動について、三國さんは後にこう語っています。
「物に対する執着がないんです。歯だって年を取れば、どうせ抜けてしまう。それなら役のために使えばいい」
また、1974年の『襤褸の旗』では、三國さんは田中正造を演じました。
撮影中、台本にはない行動をとり、思わず土を食べてしまったそうです。
これについて三國さんは「役になりきった結果」だと説明しています。
このような徹底的な役作りは、時に共演者を困惑させることもありました。
ある作品では、暴行シーンを本気で演じてしまい、共演の女優を怯えさせてしまったというエピソードもあります。
三國さんの役作りへの姿勢は、単なる演技を超えて、役そのものになりきろうとする強い意志の表れでした。
彼は「役者は役を生きなければならない」という信念を持っていたのです。
このような徹底的な姿勢は、時に周囲を驚かせ、時に批判を浴びることもありました。
しかし、それこそが三國連太郎という俳優の真髄であり、彼の演技に深みと説得力を与えた要因だったと言えるでしょう。
監督陣との信頼関係構築
三國連太郎さんの40代から50代にかけての活動で特筆すべきは、多くの名監督との深い信頼関係を築いたことです。
小林正樹監督、内田吐夢監督、今村昌平監督など、日本映画界を代表する監督たちと次々に作品を作り上げていきました。
三國さんは、これらの監督たちを「名匠」と呼び、深い敬意を示していました。
「名匠たちとの出会いは運としか言いようがありません。
この出会いを他の人に分けてあげたいと思うこともありますが、これだけは譲れません」と三國さんは語っています。
特に、今村昌平監督との関係は深く、『神々の深き欲望』や『復讐するは我にあり』など、複数の作品で共演しました。
今村組の姿勢について三國さんは、「仲間に同情を求めない、人に心配させまいとする強さがありました」と評価しています。
しかし、すべての監督との関係が順調だったわけではありません。
三國さんは率直にこう語っています。
「関係がダメになった監督もいます。それはもう夫婦の離婚みたいなものですね。しかたがない」
このような経験を経て、三國さんは後年、自ら監督を選ぶことの重要性を認識するようになりました。
「これからは、こちらから芸術家を選ぶ。自分から対象を探していくというバイタリティが重要です」と語っています。
三國さんと監督陣との関係は、単なる仕事上の付き合いを超えた、芸術的な共鳴関係でした。
互いの信頼関係の中で、時に激しくぶつかり合いながらも、最高の作品を作り上げようとする姿勢が、三國さんの俳優としての成長を支えていたのです。
この時期に築かれた監督陣との信頼関係は、三國さんの演技をより深みのあるものにし、彼の俳優としての評価をさらに高めることにつながったと言えるでしょう。
60代以降の活動:円熟の演技
60代以降の主な活動
西暦(年齢) | 主な活動歴 |
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1984年(61歳) | 紫綬褒章を受章 |
1986年(63歳) |
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1988年(65歳) | 『釣りバカ日誌』シリーズ開始(~2009年) |
1993年(70歳) | 勲四等旭日小綬章を受章 |
1996年(73歳) | 映画『美味しんぼ』で息子・佐藤浩市と親子役で共演 |
2001年(78歳) | 映画『大河の一滴』に主演 |
2007年(84歳) | 映画『北辰斜にさすところ』に出演 |
2009年(86歳) | 『釣りバカ日誌20 ファイナル』で「スーさん」役を最後に演じる |
2013年(90歳) | 4月14日、急性呼吸不全により逝去 |
釣りバカ日誌シリーズの成功
三國連太郎さんの60代以降の活動で、最も印象的なのは『釣りバカ日誌』シリーズでの活躍でした。
1988年に始まったこのシリーズは、三國さんが65歳の時からスタートし、2009年まで続きました。
三國さんは鈴木建設の社長・鈴木一之助、通称「スーさん」を演じ、西田敏行さん演じる「ハマちゃん」とのコンビで人々を魅了しました。
この役は、それまでの三國さんのイメージとは異なる、コミカルでユーモラスな一面を引き出しました。
当初、三國さんはこの役に戸惑いを感じていたそうです。
しかし、彼はこの役を通じて新たな挑戦をしようと決意します。
三國さんは後にこう語っています。
「実は『釣りバカ日誌』に出演しているのは、尊敬する藤山寛美さんに少しでも近づこうと思ってなんです」
#このタグを見た人は自分と同じ誕生日の人を1人言う
昭和の名俳優、三國連太郎氏
釣りバカ日誌のスーさんでおなじみ pic.twitter.com/F0l9KzPkUV— ひろむん (@hiromu_swm39) April 4, 2019
シリーズは大ヒットを記録し、22作品が製作されました。
三國さんと西田さんのコンビネーションは、作品を重ねるごとに深まっていきました。
二人の掛け合いは、観客を楽しませると同時に、人生の機微を感じさせるものでした。
『釣りバカ日誌』シリーズは、単なる娯楽作品ではありませんでした。
各作品で、その時々の社会問題や人間関係の機微が描かれ、観客に笑いと共に深い感動を与えました。
三國さんは最終作『釣りバカ日誌20 ファイナル』の後、このシリーズについて「僕にとっては生涯の仕事。
俳優生活の名誉だと、うそ偽りなく思います」と振り返っています。
このシリーズの成功は、三國連太郎さんの俳優としての幅広さを証明すると同時に、彼の人間性の深さを多くの人々に印象づけることになったのです。
社会派作品への取り組み
三國連太郎さんの60代以降の活動で注目すべきは、社会派作品への積極的な取り組みです。
彼は『釣りバカ日誌』シリーズで親しみやすいキャラクターを演じる一方で、社会問題を鋭く描く作品にも意欲的に参加しました。
2001年、78歳の時に主演した『大河の一滴』はその代表例です。
この作品で三國さんは、中国残留孤児の父親役を演じました。
撮影は中国で行われ、厳しい環境の中での撮影だったそうです。
三國さんはこの役について、「戦争体験者として、今の日本人に対してメッセージを届けることができるのではないか」と語っています。
彼の演技は、戦争の悲惨さと人間の尊厳を深く描き出し、多くの観客の心を揺さぶりました。
2007年には『北辰斜にさすところ』に出演。
84歳という高齢にもかかわらず、戦争の記憶に苦しむ元旧制高校生を演じました。
三國さんは撮影中、脚本の変更を求めるなど、作品の質にこだわる姿勢を見せました。
「84歳だからこそできる役目がある。
自然体で社会の矛盾を示すことが、今の私にできることだと思うんです」と三國さんは語っています。
これらの作品を通じて、三國さんは単なる演技を超えて、自身の人生経験や思想を作品に反映させようとしました。
彼は「人間として何かを訴える」ことができる役柄を求め続けたのです。
このような社会派作品への取り組みは、三國連太郎さんの俳優としての深い使命感を表しています。
彼は芸能界の重鎮としての地位に安住することなく、最後まで社会に向けて真摯なメッセージを発信し続けたのです。
後進への助言と映画界への貢献
三國連太郎さんの60代以降の活動で特筆すべきは、後進への助言と映画界全体への貢献です。
長年の経験を活かし、若手俳優たちに対して貴重なアドバイスを送り続けました。
三國さんは「お芝居はチームワーク」という言葉をよく口にしていました。
彼は、近年の俳優たちが自己主義に陥りがちな傾向を懸念し、「調和」と「人間を表現する」ことの重要性を説きました。
例えば、共演した緒形直人さんについて、三國さんはこう評しています。
「直人さんのような人は別として、近頃の俳優は自分のことしか考えない人が多い。
これは戦後が生み出した歪みの一つだと思う」
また、三國さんは映画製作の在り方についても積極的に発言しました。
2007年の『北辰斜にさすところ』では、素人の弁護士が映画製作に挑戦する姿に感銘を受け、「正攻法な映画を撮る方があまりいない中で、こういう人が出てくることは素晴らしい」と語っています。
さらに、三國さんは自身の経験を活かし、1987年に『親鸞 白い道』を製作・監督・主演しました。
4月14日・命日
◆三國 連太郎 (みくに・れんたろう)≪満90歳没≫◆
[1923年1月20日〜2013年4月14日]
「飢餓海峡」などでの迫真の演技、「釣りバカ日誌」シリーズなどで愛された。自ら監督した「親鸞・白い道」ではカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞。映画人として日本映画界を牽引し続けました。 pic.twitter.com/Q0J0WPRAPX— kazu (@kazu409366471) April 13, 2022
この作品はカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、彼の映画界への貢献をさらに高めました。
三國さんは、俳優としての活動だけでなく、日本映画界全体の発展に尽力しました。
彼の言動や作品は、単なる娯楽を超えて、人間の本質や社会の問題を深く考えさせるものでした。
このように、三國連太郎さんは生涯を通じて、日本の映画界に大きな影響を与え続けました。
彼の姿勢は、後進の俳優たちにとって、貴重な指針となっているのです。
三國連太郎の若い頃〜現在はどんな活動を?
三國連太郎の子供は3人:詳細と現在
三國連太郎さんには、確認されている子供が3人いるようです。
まず、最初の妻との間に生まれた長女がいます。
彼女は1946年から1948年頃に生まれたとされていますが、詳細な情報はあまり公開されていません。
2人目の子供は、俳優として有名な佐藤浩市さんです。
佐藤さんは1960年12月10日生まれで、三國さんの3番目の妻である石原とし子さんとの間に生まれました。
佐藤さんは父親と同じ俳優の道を歩み、現在も第一線で活躍しています。
3人目の子供は、三國さんの3番目の妻との間に生まれた次女です。
しかし、彼女についての情報はほとんど公開されていません。
一般人として生活しているため、詳細は不明です。
三國さんの複雑な結婚歴が、子供たちの情報にも影響を与えているようです。
特に、1番目と3番目の子供については、プライバシーが守られているため、その後の人生や現在の状況について知ることは難しいでしょう。
このように、三國連太郎さんの子供たちは、それぞれ異なる人生を歩んでいます。
有名俳優として活躍する佐藤浩市さんを除いて、他の2人の子供たちは一般人として静かに暮らしているようです。
三國さんの波乱万丈な人生が、子供たちにも様々な形で影響を与えたことがうかがえます。
佐藤浩市との確執:親子関係の真実
三國連太郎さんと息子の佐藤浩市さんの関係は、長年にわたり確執があったと言われています。
佐藤さんが5歳の頃、両親が離婚し、その後は母親に育てられました。
この経験が、父親との関係に大きな影響を与えたようです。
佐藤さんが俳優になろうと決意し、三國さんに報告した際の出来事が、二人の確執を決定的にしたと言われています。
三國さんは「おやりになるなら、親子の縁を切りましょう」と言ったそうです。
この言葉が佐藤さんの心に深い傷を残しました。
1996年、二人は映画「美味しんぼ」で共演しました。
#美味しんぼ
森崎東監督作。寅さんや釣りバカに通じる松竹映画のムードがあって、妙にリラックスして観れる。山岡・雄山の親子に、下手すれば彼ら以上に確執がありそうな佐藤浩市・三國連太郎親子をキャスティングするという、仲の悪い者同士をあえて対戦させる全女的発想が功を奏した。 pic.twitter.com/MiWQOcekuO
— 地下生活者の映画日記 (@hjgTFGrbXA5a1Cg) April 26, 2021
皮肉にも、作中の親子も確執を抱えていたのです。
制作会見では、お互いを「三國さん」「佐藤くん」と他人行儀に呼び合い、佐藤さんの発言を三國さんが否定するなど、二人の確執が表面化しました。
しかし、三國さんは後年、あの発言について「俳優という仕事に対して何かの支えになる自信がなかった」と語っています。
厳しい芸能界を知っていたからこそ、親心からの言葉だったのかもしれません。
残念ながら、二人は和解することなく三國さんが他界しました。
しかし、佐藤さんは父親について「僕がここに立って、やりたいと思える芝居をやれるのは三國連太郎という人がいたから」と語っています。
この複雑な親子関係は、二人の俳優としての深みや演技力にも影響を与えたのではないでしょうか。
確執はあったものの、互いに認め合う部分もあった、そんな親子の姿が浮かび上がってきます。
4回の結婚と家族への影響
三國連太郎さんの結婚歴は、彼の波乱万丈な人生を物語っています。
生涯で4回の結婚と3回の離婚を経験し、その度に家族関係が大きく変化しました。
1回目の結婚は1946年、中国からの帰国のための偽装結婚でした。
この妻との間に長女が生まれますが、2年後に離婚しています。
2回目は1948年頃、鳥取県で資産家の娘と結婚しましたが、俳優デビューを機に1952年に離婚しました。
3回目の結婚は1957年、神楽坂の芸者だった石原とし子さんとの間に息子・佐藤浩市さんが生まれます。
しかし、1962年に家を出て、若手女優の太地喜和子さんとの不倫関係に発展。
この関係も短期間で終わり、1972年に正式に離婚しました。
最後の結婚は1976年、友子さんとの結婚です。
この結婚は三國さんの人生に大きな変化をもたらしました。
友子さんとの生活で性格も変わり、「友子のために長生きしなくては」と語るほど、安定した関係を築いたようです。
これらの結婚と離婚は、三國さんの子供たちにも大きな影響を与えました。
特に佐藤浩市さんとの確執は、複雑な家族関係の象徴とも言えるでしょう。
三國さんの人生は、家族との関係に苦悩しながらも、最終的には安らぎを見出した物語と言えるかもしれません。
その経験が、彼の俳優としての深みにも繋がったのではないでしょうか。
三國連太郎のプロフィール
項目 | プロフィール |
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本名 | 佐藤 政雄(さとう まさお) |
生年月日 | 1923年1月20日 |
没年月日 | 2013年4月14日(90歳没) |
出生地 | 日本 群馬県太田市 |
身長 | 178 cm |
血液型 | AB型 |
職業 | 俳優 |
活動期間 | 1950年 – 2013年 |
配偶者 | 4回結婚 |
著名な家族 |
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三國連太郎の若い頃は密航と逃亡の連続!複雑な結婚歴で3人の子供あり!:まとめ
三國連太郎さんの若い頃は、波乱万丈そのものでした。
16歳で密航し、中国や朝鮮半島を転々とした経験が、後の俳優としての深みにつながります。
27歳でスカウトされ俳優デビュー、その後は数々の名作に出演し、日本映画界を代表する俳優へと成長。
役作りへの徹底的な姿勢は、時に常識を超えるものでした。
健康な歯を抜くなど、役になりきろうとする強い意志が、その演技に説得力を与えたようです。
60代以降は『釣りバカ日誌』シリーズで新たな魅力を発揮し、同時に社会派作品にも積極的に取り組みました。
4回の結婚と複雑な家族関係も、三國さんの人生に大きな影響を与えました。
最後まで俳優魂を失わず、後進の指導にも尽力した三國連太郎さん。
その波乱に満ちた人生は、まさに日本映画界の縮図と言えるでしょう。