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役者

大山のぶ代の若い頃から現在まで!最後の仕事や旦那との関係も!

国民的声優として知られる大山のぶ代さんの若い頃から晩年までの軌跡を、詳細な活動歴と共にご紹介します。

女優デビューから声優への転身、そして「ドラえもん」役での26年間の活躍など、大山さんの多彩な才能と情熱が伝わってきます。

当記事を読めば、大山のぶ代さんの若い頃からの成長と、声優としての輝かしいキャリア、そして晩年の挑戦まで、その波乱に富んだ人生を知ることができますよ!

当記事で主に以下の内容をまとめています。

  • 大山のぶ代さんの俳優座養成所時代の苦労と学び
  • 声優デビューのきっかけと初期の代表作
  • 若い頃の多彩な活動(女優、声優、料理研究家)
  • 「ドラえもん」役獲得までの経緯と成功
  • 晩年の新たな挑戦(声優学校校長、モノクマ役)
  • 最後の仕事と、旦那の献身的な介護

大山のぶ代の若い頃:主な活動歴や受賞歴

デビューから声優への道

デビュー初期の主な活動

西暦(年齢) 主な活動歴
1954年(20歳) 俳優座養成所第6期生として入所
1956年(22歳) NHKドラマ「この瞳」で女優デビュー
1957年(23歳)
  • 劇団新人会に入団
  • 「名犬ラッシー」の吹き替えで声優デビュー
1960年(26歳) NHK人形劇「ブーフーウー」でブー役を担当
1965年(31歳) テレビアニメ「ハッスルパンチ」で初主演
1969年(35歳) 「サザエさん」で初代カツオ役を担当(〜同年12月)

俳優座養成所での学び

大山のぶ代さんの俳優人生・声優人生は、俳優座養成所での学びから始まりました。

高校在学中に母を亡くし、将来のために手に職をつけようと決意した大山さん。

そこで選んだのが俳優の道でした。

俳優座養成所に第7期生として入所した大山さんは、厳しい訓練に耐えながら演技の基礎を学びました。

養成所時代は50人いた同期生がどんどん減っていく中、必死で食らいついていったそうです。

超一流の講師陣による高度な授業内容に、大山さんは全力で取り組みました。

経済的に苦しい中、大山さんは様々なアルバイトをしながら学業を続けました。

朝は講師の家で家政婦として働き、洗濯や料理、掃除をこなしていたそうです。

この経験が後の料理研究家としての活動にも生きることになりました。

養成所での学びを通じて、大山さんは演じることの楽しさを深く知ることができたのです。

ここでの経験が、後の多彩な活動の礎となったのでしょう。

俳優座養成所での学びは、大山さんの長い芸能人生の出発点となりました。

にゃん
にゃん
大山のぶ代さんって、デビュー当時から個性的な声だったの?
わん
わん
そうなんだよ。幼稚園の入園式で名前を呼ばれて返事したら、保護者たちが一斉に立ち上がって振り返ったんだって。でも、大山さん本人は全然気づかなかったらしいよ。母親に「十分黙っていればおやつをあげる」って言われるくらいおしゃべりだったんだって。

NHKドラマでの女優デビュー

大山のぶ代さんの女優デビューは、1956年のNHKドラマ「この瞳」でした。

俳優座養成所に在学中の大山さんは、同期の冨士真奈美さんとともにこの作品に出演する機会を得たのです。

デビュー作での経験は、大山さんにとって忘れられないものとなりました。

初めてのテレビドラマ出演に緊張しながらも、養成所で学んだ演技の基礎を生かそうと懸命に取り組んだそうです。

大山さんは後年、このデビュー作について語る際、「何もかもが新鮮で、現場の空気に圧倒されながらも、役者としての第一歩を踏み出せた喜びでいっぱいだった」と振り返っています。

初めての本格的な演技経験は、その後の彼女の芸能活動の原点となりました。

このNHKドラマでのデビューを契機に、大山さんの女優としてのキャリアが本格的にスタートしました。

「この瞳」での経験は、彼女に自信を与え、さらなる高みを目指す原動力となったのです。

テレビドラマでの成功は、後の声優活動への転身にもつながる重要な一歩となりました。

にゃん
にゃん
大山のぶ代さんって、声優デビュー前は何をしてたの?
わん
わん
実は、声優デビュー前から女優として活躍してたんだよ。1956年にNHKドラマ「この瞳」で女優デビューしてね。同期の冨士眞奈美さんと一緒に出演したんだって。そこから翌年に声優デビューするまで、テレビドラマに出演してたんだ。

声優としての転身と成長

大山のぶ代さんの声優としての道は、彼女の独特なハスキーボイスがきっかけとなりました。

1957年、「名犬ラッシー」の吹き替えで声優デビューを果たした大山さん。

この経験が、彼女の人生を大きく変える転機となったのです。

声優の仕事が増えるきっかけとなったのは、1960年のNHK人形劇「ブーフーウー」でのブー役でした。

大山さんは後年、この役について「子供向けの作品で声を演じるのは初めてで、とても新鮮で楽しかった」と語っています。

この経験が、彼女の声優としての才能を開花させる大きなステップとなりました。

その後、大山さんは様々なアニメ作品に出演。

1965年には「ハッスルパンチ」で初主演を果たし、「ハリスの旋風」や「無敵超人ザンボット3」など、複数の作品で主役を演じました。

彼女の声の表現力は、作品ごとに磨かれていきました。

大山さんは、声優の仕事を通じて「声だけで様々な感情や状況を表現する難しさと面白さ」を実感したそうです。

この経験が、後の「ドラえもん」役での長年の活躍につながっていったのでしょう。

声優としての転身と成長は、大山さんの芸能人生に新たな可能性をもたらしたのです。

ドラえもん担当時代の活動:国民的声優へ

ドラえもん担当時代の主な活動

西暦(年齢) 主な活動歴
1979年(45歳) テレビアニメ「ドラえもん」でドラえもん役を開始
1980年(46歳)
  • 「ドラえもん音頭」でミリオンセラーを記録
  • 映画「ドラえもん のび太の恐竜」公開
1981年(47歳) 料理本「大山のぶ代のおもしろ酒肴」が136万部のベストセラーに
1982年(48歳) フジテレビの料理番組「夕食ばんざい」に出演
2001年(67歳) 直腸がんが発覚し、「ドラえもん」以外の仕事を降板
2005年(71歳) 「ドラえもん」を降板、26年間の担当を終える

ドラえもん役での26年間

1979年(当時45歳)、大山のぶ代さんはテレビアニメ「ドラえもん」でドラえもん役を担当することになりました。

この役との出会いは、彼女の人生を大きく変えることとなったのです。

大山さんは、ドラえもんを演じるにあたって、「未来から来た、しっかり者だけどちょっとドジな5~7歳くらいの男の子」をイメージしたそうです。

そして、丁寧な言葉遣いを心がけ、「こんにちは、ぼくドラえもんです」という有名なセリフを自ら考案しました。

この工夫が、ドラえもんの親しみやすさにつながったのでしょう。

1980年(当時46歳)には、大山さんが歌う「ドラえもん音頭」がミリオンセラーを記録。

声優としての活動だけでなく、歌手としても成功を収めました。

2005年(71歳)まで26年間にわたってドラえもん役を演じ続けた大山さん。

この間、彼女はドラえもんを通じて多くの子どもたちに夢と希望を与え続けました。

降板後、大山さんは「ドラえもんを演じながら、私自身もたくさんのことを学びました」と語っています。

ドラえもん役での26年間は、大山さんを国民的声優へと押し上げただけでなく、日本のアニメ文化に大きな影響を与えたのです。

多彩な声優活動の展開

大山のぶ代さんは、ドラえもん役で知られる一方で、多彩な声優活動を展開していました。

1969年(当時35歳)には、人気アニメ「サザエさん」の初代カツオ役を演じ、視聴者を魅了しました。

大山さんは後年、この役について「カツオの素直さと元気さを表現するのが楽しかった」と語っています。

NHKの教育番組にも多数出演し、1960年(当時26歳)から1969年(当時35歳)まで、人形劇「ブーフーウー」シリーズに出演。

その後も「とんでけブッチー」「ミューミューニャーニャー」など、4作連続で声優を務めました。

大山さんは、子供向け番組での経験を「子どもたちの心に寄り添う声の演技を学ぶ貴重な機会だった」と振り返っています。

さらに、1978年(当時44歳)には「ハリスの旋風」で主演を務め、少年役を演じる声優としての実力を発揮しました。

この作品での経験が、翌年のドラえもん役獲得につながったと言えるでしょう。

大山さんの多彩な声優活動は、彼女の演技の幅広さと適応力を示しています。

子供向けから大人向けまで、様々な作品で活躍した経験が、国民的声優としての地位を確立する基盤となったのです。

にゃん
にゃん
ドラえもん時代には、他の仕事もしてたの?
わん
わん
実は、ドラえもん役を演じていた26年間は、他の声の仕事は一切引き受けなかったんだって。大山さん自身が「私自身があの子に夢中で、他のことに気が向かなかった」って言ってたよ。ドラえもんへの愛情と dedication がすごいよね。

料理研究家としての一面

大山のぶ代さんは、声優としての活躍だけでなく、料理研究家としても知られていました。

1981年(当時47歳)に出版された『大山のぶ代のおもしろ酒肴』は、136万部を超えるベストセラーとなりました。

この成功は、彼女の料理への情熱と知識の深さを物語っています。

大山さんは、料理への愛着について「大家族で育った経験から、和食や季節の食べ物を大切にする心が育まれた」と語っています。

彼女は曽祖母や祖母から受け継いだ料理の知恵を大切にし、それを現代風にアレンジする才能がありました。

1982年(当時48歳)には、フジテレビの料理番組「夕食ばんざい」に出演。

ここで大山さんは、自身の料理の腕前を披露しただけでなく、視聴者に親しみやすい料理の魅力を伝えました。

彼女は「料理は愛情表現の一つ。

簡単でおいしい料理を通じて、家族の絆を深めてほしい」と番組で語っていたそうです。

大山さんの料理研究家としての活動は、声優業と並行して行われ、彼女の多才な一面を世に示すことになりました。

料理を通じて多くの人々の生活に寄り添った大山さんの姿勢は、国民的声優としての親しみやすさにもつながったのでしょう。

ドラえもん降板後の活動:新たな挑戦

ドラえもん降板後の主な活動

西暦(年齢) 主な活動歴
2006年(72歳) 自伝エッセイ「ぼく、ドラえもんでした。」を出版
2007年(73歳) 音響芸術専門学校の校長に就任
2010年(76歳) ゲーム「ダンガンロンパ」でモノクマ役を担当、声優復帰
2012年(78歳) アルツハイマー型認知症と診断される
2014年-2016年(80-82歳) Webアニメ「おにくだいすき! ゼウシくん」でみの太役を担当(最後のアニメ出演)
2015年(81歳) 「ドラえもん映画祭2015」に手紙を寄せる(ドラえもんに関する最後のメッセージ)
2016年(82歳) 老人ホームに入居
2024年(90歳) 9月29日、老衰のため逝去

声優学校校長としての貢献

2007年(当時73歳)、大山のぶ代さんは音響芸術専門学校の校長に就任しました。

長年の経験を生かし、次世代の声優やアナウンサーの育成に力を注ぎました。

この役割は、彼女にとって新たな挑戦であり、声優業界への恩返しでもありました。

大山さんは、学校での指導について「声優の仕事は単なる声の演技だけではない。人間性や教養も大切」と語っていました。

カリキュラム編成にも携わり、声優・アナウンス専門課程で昼間・夜間部の授業を数多く担当。

学生たちに直接指導する姿勢は、彼女の教育への情熱を物語っています。

特に印象的だったのは、認知症を公表した2015年(当時81歳)以降も、数か月に一度の特別講義を続けていたことです。

大山さんは「声優の仕事は一生の仕事。私も死ぬまで役者でありたい」と学生たちに語りかけ、その姿勢は多くの若者に感銘を与えました。

2011年(当時77歳)に校長を退任した後も、名誉学長として学校に関わり続けた大山さん。

彼女の貢献は、日本の声優業界の発展に大きな影響を与えました。

声優学校校長としての活動は、大山さんのキャリアの新たな側面を示すとともに、彼女の声優への深い愛情を表す取り組みとなったのです。

にゃん
にゃん
大山のぶ代さんって、ドラえもん降板後も声優の仕事してたの?
わん
わん
うん、してたんだよ。2010年に77歳で「ダンガンロンパ」っていうゲームで、モノクマっていう謎のぬいぐるみ型学園長の役を演じたんだ。これが大山さんの人生初の悪役だったんだって。5年ぶりの声優復帰で、新しい挑戦だったんだね。

モノクマ役での声優復帰

2010年(当時76歳)、大山のぶ代さんは人気ゲーム「ダンガンロンパ」シリーズで、謎のぬいぐるみ型学園長「モノクマ」役を演じ、5年ぶりに声優として復帰しました。

この役は大山さんにとって初めての悪役であり、新たな挑戦となりました。

大山さんは、モノクマ役について「これまでとは全く異なるキャラクターを演じることができて、とてもワクワクした」と語っています。

彼女の演技は、かわいらしさと不気味さを絶妙に表現し、多くのファンを魅了しました。

特筆すべきは、大山さんがこの役を通じて、声優としての新たな可能性を見出したことです。

彼女は「年齢を重ねても、声優として成長できることを実感した」と振り返っています。

この経験は、大山さんに新たな創造性と挑戦する勇気をもたらしました。

2013年(当時79歳)には、「ダンガンロンパ」のテレビアニメ版でも引き続きモノクマ役を演じ、深夜アニメ初出演を果たしました。

大山さんの声優としての適応力と実力は、世代を超えて多くの視聴者に認められることとなったのです。

モノクマ役での声優復帰は、大山さんのキャリアに新たな輝きを与えただけでなく、彼女の声優としての情熱が衰えていないことを示す出来事となりました。

にゃん
にゃん
大山のぶ代さん、ドラえもん降板後も別の趣味とかあったの?
わん
わん
そう言えば、大山さんってアルカノイドっていうゲームの大ファンだったんだよ。自分の別荘にアルカノイドの筐体を置いてたくらいで、120万点ぐらいの記録を持ってたんだって。認知症になってからは遊べなくなったけど、その筐体は今でもゲームセンターで大切に保管されてるんだ。

大山のぶ代の若い頃〜現在:最後の仕事と旦那の介護について

介護施設での穏やかな生活

大山のぶ代さんは、2016年から老人ホームで過ごしていました。

認知症を患っていましたが、施設での生活は彼女にとって穏やかなものだったようです。

施設のスタッフによると、大山さんは他の入所者との交流を楽しんでいたといいます。

特に合唱などの活動に積極的に参加し、リーダー的な存在として周囲から慕われていました。

食事の時間になると、スタッフが「ご飯ですよ」と声をかけると笑顔を見せるなど、日々の生活を楽しんでいる様子が見られました。

大山さんの食べることへの愛情は、認知症を患った後も変わることはありませんでした。

施設での生活中、簡単な受け答えはできており、ピアノの先生が懐かしい楽曲を弾くと大きな声で歌うこともあったそうです。

言葉でのコミュニケーションが難しくなった後も、音楽を通じて周囲とつながりを持ち続けていました。

このように、大山さんは認知症と向き合いながらも、穏やかで充実した日々を過ごしていたのです。

彼女の笑顔は、周囲の人々に勇気と希望を与え続けていたのでしょう。

最後の仕事は「おにくだいすき! ゼウシくん」

2012年(当時78歳)、大山のぶ代さんはアルツハイマー型認知症と診断されましたが、声優としての情熱は衰えることはありませんでした。

診断後も、大山さんは限られた形で声優活動を継続。

2014年から2016年(当時80歳から82歳)にかけて、全国農業協同組合連合会のWebアニメ「おにくだいすき! ゼウシくん」にみの太役で出演し、これが彼女の最後のアニメ出演作品となりました。

大山さんのプロ意識は健在で、音響芸術専門学校でのドラえもんの声のメッセージ収録では、一発でOKを出すなど、その実力は衰えを見せませんでした。

2015年(当時81歳)には認知症を公表しましたが、同年「ドラえもん映画祭2015」に向けて手紙を送り、現在の『ドラえもん』キャストにエールを送りました。

2016年(当時82歳)以降は老人ホームで過ごすようになりましたが、そこでも大山さんの明るさは健在でした。

施設のスタッフによると、合唱などの活動に積極的に参加し、他の入所者のリーダー的存在として楽しく過ごしていたといいます。

晩年、大山さんは老衰による体調不良で入退院を繰り返しましたが、最後まで食べることが大好きでした。

「ご飯ですよ」という声かけに笑顔を見せるなど、日々の生活を楽しんでいました。

2024年9月29日、90歳で永眠するまで、大山さんは声優としての誇りを持ち続けました。

彼女の生涯は、困難にも負けない強さと、声優業への深い愛情に満ちたものでした。

旦那・砂川啓介さんの献身的な介護

大山のぶ代さんの夫、砂川啓介さんは、妻の認知症が進行する中で献身的な介護を行いました。

二人は1964年に結婼して以来、おしどり夫婦として知られていました。

砂川さんは、大山さんの認知症の症状に最初に気づいた人物でした。

料理が得意だった大山さんが、鍋を空焚きしたり、食べ物を書類の引き出しに入れたりするなど、異変を察知しました。

そして、2012年秋に正式に認知症と診断されると、砂川さんは自宅で介護を始めました。

砂川さんは、大山さんの薬の管理から日常生活のサポートまで、細やかな気配りで介護に当たりました。

特に、大山さんが公の場で突然怒り出すなどの症状が現れた際も、冷静に対応し、周囲への配慮を忘れませんでした。

2016年、砂川さん自身が尿管がんを患ったことで、大山さんを老人ホームに入居させることを決断。

しかし、その後も頻繁に面会に訪れ、妻への愛情を示し続けました。

砂川さんは「僕が先には逝けない」と語り、最後まで大山さんを支え続ける決意を示していました。

砂川さんの献身的な介護は、2017年に80歳で亡くなるまで続きました。

彼の姿勢は、認知症患者を抱える多くの家族に勇気と希望を与えたことでしょう。

砂川さんの愛情深い介護は、大山さんの晩年を支えた大きな力となったのです。

大山のぶ代のプロフィール

項目 プロフィール
本名 山下羨代(やました のぶよ)
生年月日 1933年10月16日
出身地 東京府東京市渋谷区伊達町(現:東京都渋谷区恵比寿三丁目)
主な経歴
  • 1956年:NHKドラマ「この瞳」で女優デビュー
  • 1957年:「名犬ラッシー」の吹き替えで声優デビュー
  • 1979年〜2005年:アニメ「ドラえもん」のドラえもん役
  • 2007年:音響芸術専門学校の校長に就任
  • 2010年:「ダンガンロンパ」でモノクマ役を担当
代表作
  • アニメ「ドラえもん」(ドラえもん役)
  • アニメ「サザエさん」(初代カツオ役)
  • アニメ「無敵超人ザンボット3」(神勝平役)
  • ゲーム・アニメ「ダンガンロンパ」(モノクマ役)
その他の活動
  • 料理研究家(著書「大山のぶ代のおもしろ酒肴」がベストセラーに)
  • 女優(ドラマ「水戸黄門」「破れ傘刀舟悪人狩り」など)
  • 脚本家(ドラマ「太陽にほえろ!」の脚本を担当)
趣味 アルカノイド(ブロック崩しゲーム)
逝去 2024年9月29日(90歳)

大山のぶ代の若い頃から現在まで!最後の仕事や旦那との関係も!:まとめ

大山のぶ代さんの若い頃は、俳優座養成所での学びから始まりました。

20歳で入所し、厳しい訓練に耐えながら演技の基礎を磨きました。

22歳でNHKドラマ「この瞳」で女優デビューを果たし、翌年には「名犬ラッシー」の吹き替えで声優としてのキャリアをスタートさせました。

26歳で「ブーフーウー」のブー役を担当したことが、子供向け番組での活躍につながり、31歳で「ハッスルパンチ」で初主演を果たしました。

35歳で「サザエさん」の初代カツオ役を演じ、45歳で「ドラえもん」のドラえもん役を担当。

この役は26年間続き、大山さんを国民的声優の地位へと押し上げました。

晩年は認知症と闘いながらも、82歳まで声優活動を続け、最後まで情熱を持ち続けました。

大山さんの生涯は、声優業への深い愛情に満ちたものでした。