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人物

寺尾聰の若い頃がイケメン!デビュー当時から現在までの軌跡を解説!

この記事では、寺尾聰さんの若い頃から、半世紀以上にわたる芸能活動を紹介しています。

10代でのグループサウンズ時代から、俳優デビュー、30代での歌手としてのブレイク家族との関係まで、寺尾さんの人間性も垣間見ることができます。

当記事を読めば、寺尾聰さんの若い頃からの芸能人生と、活躍し続ける秘訣を知ることができますよ!

当記事で主に以下の内容をまとめています。

  • 寺尾聰さんの若い頃の音楽活動について
  • 俳優としてのキャリアの始まりと父との共演
  • 1980年代の歌手としての大ブレイクの詳細
  • 若手俳優との共演や指導に対する姿勢
  • 家族構成と私生活の一端

寺尾聰の若い頃:主な活動歴や受賞歴

10〜20代の活動

10〜20代の主な活動歴

西暦(年齢) 主な活動歴
1965年(18歳) グループサウンズのバンド「ザ・サベージ」に加入、ベーシストとして活動開始
1966年(19歳)
  • 「ザ・サベージ」でデビュー
  • デビュー曲「いつまでもいつまでも」がヒット
  • 2ndシングル「この手のひらに愛を」がヒット
1968年(21歳)
  • 「ザ・サベージ」を脱退
  • 「ザ・ホワイト・キックス」に参加
  • 映画『黒部の太陽』で俳優デビュー
1970年(23歳)
  • NHK銀河テレビ小説「大風呂敷」で初主演
  • ソロアルバム『二人の風船/恋人と一緒に聴いて下さい』を発表
1971年(24歳) 日本テレビ「2町目3番地」に出演
1973年(26歳) 女優の范文雀さんと結婚
1976年(29歳) 日本テレビ「大都会」で新聞記者役を演じる

グループサウンズで音楽活動

寺尾聰さんの音楽活動は、1960年代のグループサウンズ全盛期に始まりました。当時、ビートルズやローリング・ストーンズの影響を受けた若者たちが、新しい音楽スタイルを追求していた時代でした。

1965年、寺尾さんは「ザ・サベージ」というバンドに加入し、ベーシストとして活動を開始します。翌年の1966年7月、バンドはデビューを果たします。

「ザ・サベージ」は、フォーク調の音楽性で注目を集め、デビュー曲「いつまでもいつまでも」と2ndシングル「この手のひらに愛を」が立て続けにヒットしたのです。

しかし、寺尾さんの音楽活動は順風満帆ではありませんでした。

本人いわく、「短気で気難しい性格のため、バンドメンバーとうまくいいかず、「ザ・サベージ」を脱退。

その後、1968年に「ザ・ホワイト・キックス」というバンドに参加しましたが、シングル1枚をリリースしただけで解散します。これを機に、寺尾さんは一時音楽活動を休止し、俳優としての道を模索し始めたのでした。

寺尾さんの音楽活動は短期間でしたが、グループサウンズ時代の経験が、後の俳優としてのキャリアや、1980年代の歌手としての成功につながったと言えるでしょう。

にゃん
にゃん
寺尾聰さんって、10代の頃からすでに個性的だったの?
わん
わん
そうなんだよ。寺尾さんは10代の頃、短気で気難しい性格だったんだって。バンド活動をしていた時も、仲間とうまく付き合えずにバンドを脱退しちゃったくらいなんだって。でも、その経験が後の俳優としての成長につながったみたいだね。

俳優デビューと父との共演

寺尾聰さんの俳優デビューは、音楽活動の休止後、1968年のことでした。石原プロと三船プロの合作映画「黒部の太陽」で、石原裕次郎さん主演の作品に出演したのです。

この映画出演には、興味深いエピソードがあります。実は、寺尾さんの父親である宇野重吉さんの息子役が決まらず、キャスティングに難航していたそうです。

そこで、熊井啓監督が宣伝効果も狙って「実際の父子でいきましょう」と、直接寺尾さんに出演交渉をしたのでした。

当初、寺尾さんは「親の七光り」と見られることを懸念し、出演を躊躇したといいます。しかし、押し問答の末に承諾し、映画デビューを果たしました。

この経験について、寺尾さんは後年「父の影響力を借りることに抵抗があったが、それが自分の俳優としての第一歩になった」と振り返っています。

その後も、父子での共演は続きました。

1970年に放送されたNHK銀河テレビ小説「大風呂敷」では、寺尾さんが初主演を務め、宇野さんが脇を固める形で出演。いわゆる「父子セット」での出演が話題を呼びました。

寺尾さんの俳優としてのキャリアは、父との共演から始まりましたが、やがて自身の実力で道を切り開いていくことになります。

父の影響を受けつつも、独自の演技スタイルを確立していった寺尾さんの姿勢は、多くの若手俳優たちの模範となっているのです。

にゃん
にゃん
寺尾聰さんって、20代の頃に結婚してたんだよね?何か面白いエピソードあるの?
わん
わん
うん、寺尾さんは26歳の時に范文雀さんと電撃結婚したんだ。范さんは当時人気絶頂で、所属事務所が怒っちゃったんだって。寺尾さんいわく「これから稼げる人気タレント」をゲットしたって感じで、渡辺プロは「トンビに油揚げをさらわれた」って憤慨したらしいよ。

30〜40代の活動

30〜40代の主な活動歴

西暦(年齢) 主な活動歴
1979年(32歳) テレビ朝日「西部警察」に出演、石原軍団の一員として活躍
1980年(33歳)
  • 8月に「SHADOW CITY」をリリース
  • 10月に「出航 SASURAI」をリリース
1981年(34歳)
  • 2月に「ルビーの指環」をリリース、大ヒット
  • 4月にアルバム『Reflections』をリリース、180万枚以上を売り上げる
1985年(38歳) 黒澤明監督の映画『乱』に出演
1990年(43歳) 黒澤明監督の映画『夢』に出演

刑事ドラマでの活躍

寺尾聰さんの30代から40代にかけての活動は、刑事ドラマでの活躍が特筆されます。

1976年、日本テレビの「大都会」で新聞記者役を演じたことをきっかけに、彼の俳優としてのキャリアは大きく飛躍しました。

1979年からは、石原プロダクション制作のテレビ朝日「西部警察」に出演し、刑事役を演じることになります。この作品で、寺尾さんは石原軍団の一員として認められ、その存在感を大いに発揮しました。

寺尾さんは、この時期のドラマ出演について「サングラスをかけ、ニヒルな表情がトレードマークだった」と振り返っています。

クールでスタイリッシュな刑事像は、当時の視聴者に強い印象を与え、寺尾さんの代表的なイメージの一つとなりました。

また、この頃の寺尾さんは、父・宇野重吉さんの影響から脱却し、独自の演技スタイルを確立していった時期でもあります。「西部警察」での活躍は、寺尾さん自身の俳優としての実力を証明する機会となったのです。

刑事ドラマでの活躍は、寺尾さんの俳優としての幅を広げ、後の多様な役柄への挑戦につながりました。

クールな刑事役から、後年の温かみのある役柄まで、幅広い演技を見せる寺尾さんの基礎は、この時期に築かれたと言えるでしょう。

にゃん
にゃん
寺尾聰さんの30代って、性格が荒かったって聞いたけど本当?
わん
わん
うん、そうみたい。ある記者が寺尾さんに名刺を渡したら、「こんなもの、いらない」って破り捨てちゃったんだって。後でわかったけど、その記者の所属する新聞社の記事で、寺尾さんの再婚問題を取り上げたのが気に入らなかったみたい。若い頃の寺尾さん、結構ワイルドだったんだね。

歌手として大ブレイク

寺尾聰さんの30代後半から40代にかけて、俳優としての活動に加えて歌手としても大きな成功を収めました。1980年代初頭、寺尾さんの音楽キャリアは急速に加速していきます。

1980年8月に「SHADOW CITY」、10月に「出航 SASURAI」をリリース。これらの曲は当初、大きな反響を得ませんでしたが、後の大ヒットの布石となりました。

翌1981年2月、寺尾さんは「ルビーの指環」をリリースします。この曲が、寺尾さんの音楽キャリアを大きく変えることになります。

「ルビーの指環」は徐々に人気を集め、3月にはテレビの歌番組『ザ・ベストテン』に初登場。その後、驚異的な人気を博し、同番組で12週連続1位という記録を打ち立てました。

寺尾さんは、この曲の成功について「予想もしていなかった反響でした。老若男女問わず、多くの方に歌っていただけて本当に嬉しかったです」と振り返っています。

この大ヒットを受けて、以前にリリースした「SHADOW CITY」と「出航 SASURAI」も再び注目を集め、チャートに再浮上。いずれもトップ10入りを果たしました。

同年4月にリリースされたアルバム『Reflections』も大ヒットし、1年間で180万枚を超える売り上げを記録。この成功により、寺尾さんは俳優としてだけでなく、歌手としても確固たる地位を築きました。

寺尾さんの独特な歌声と大人の魅力が詰まった楽曲は、多くの人々の心を捉え、彼を日本を代表するアーティストの一人へと押し上げたのです。

50代以降の活動歴

50代以降の主な活動歴

西暦(年齢) 主な活動歴
2000年(53歳) 映画『雨あがる』で主演、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞
2003年(56歳) 映画『半落ち』で主演、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞
2008年(61歳) 紫綬褒章を受章
2014年(67歳) NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で徳川家康役を演じる
2016年(69歳) ドラマ「仰げば尊し」で教師役を演じる
2018年(71歳)
  • 旭日小綬章を受章
  • 映画『さまよう刃』に出演
2023年(76歳) 長編アニメーション映画『屋根裏のラジャー』で声優初挑戦

名優としての評価確立

寺尾聰さんの50代以降の活動は、名実ともに日本を代表する名優としての地位を確立した時期と言えるでしょう。

特筆すべきは、黒澤明監督作品への出演です。

1985年の『乱』、1990年の『夢』に続き、2000年には黒澤監督の遺稿を映画化した『雨あがる』で主演を務めました。

寺尾さんは、黒澤作品に携わった経験について「監督の細やかな演出と深い洞察力に、毎回新たな発見があった」と語っています。

『雨あがる』での演技は高く評価され、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。さらに2005年には『半落ち』でも同賞を受賞し、演技力の高さを改めて証明しました。

これらの功績が認められ、2008年には紫綬褒章を受章。父・宇野重吉さんに続いての受章となり、親子二代での栄誉となりました。さらに2018年には旭日小綬章も受章し、その功績は国からも高く評価されています。

寺尾さんは、これらの評価について「一つ一つの作品に真摯に向き合ってきた結果だと思います。これからも挑戦を続けていきたい」と謙虚に語っています。

俳優としての円熟期を迎えた寺尾さんの演技は、深みと説得力を増し、多くの観客を魅了し続けています。その姿は、日本映画界の重要な一角を担う存在として、揺るぎないものとなっているのです。

にゃん
にゃん
寺尾聰さんって、50代で映画『さまよう刃』に出演したよね。どんな役だったの?
わん
わん
そうだよ。寺尾さんは娘を殺された父親役を演じたんだ。彼は、この役について「ほとんど言葉を発さず、さまよい歩く」って言ってたんだ。犯人を追いかける中で、単なる復讐じゃなく、より重い罪を背負わせることが父親の答えだったって。結構重い役どころだったみたいだね。

若手俳優との共演と指導

寺尾聰さんの50代以降の活動で特筆すべきは、若手俳優との共演と指導に力を入れていることです。

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、岡田准一さん演じる黒田官兵衛と対峙する徳川家康役を演じました。

寺尾さんは、岡田さんについて「器用で努力家、真面目な後輩の一人」と評し、共演を楽しんでいたようです。

若手俳優との共演について、寺尾さんは「若くて才能あふれる人たちと向き合うのは、すごく面白い」と語っています。

岡田将生さん、向井理さん、松坂桃李さんなど、実力派の若手俳優たちとの共演を通じて、自身も刺激を受けているといいます。

2016年のドラマ「仰げば尊し」では、教師役を演じた寺尾さんが、多部未華子さんや真剣佑さんら若手俳優たちと共演。撮影の合間には、普段は無口な寺尾さんが、若手たちに積極的に話しかける姿が見られたそうです。

寺尾さんは、自身の若い頃の経験から「先輩から何も教えてもらえず、遠回りした」と振り返り、それゆえに「余計だと思われない限り、若い俳優たちに伝えていきたい」という思いを持っているそうです。

この姿勢は、若手俳優たちからも高く評価されています。真剣佑さんは「寺尾さんの話は心に染みる。本当の先生のように教えてくださる」と感謝の言葉を述べています。

寺尾さんの若手俳優への指導と共演は、日本の俳優界に新たな風を吹き込み、次世代の俳優たちの成長に大きく貢献しているのです。

寺尾聰の若い頃〜現在はどんな活動を?

俳優として精力的に活躍中

寺尾聰さんは、70代も後半に入った現在も、俳優として精力的に活動を続けています。

2023年4月には、TBSのドラマ『ラストマン-全盲の捜査官-』に護道清二役として出演。福山雅治さんや大泉洋さんらと共演し、穏やかな中にもキーマンとしての渋さを見せつけました。

同年9月には、山田洋次監督の最新作『こんにちは、母さん』に出演。吉永小百合さんの恋愛相手役を演じ、静かで味のある演技で観客を魅了しています。

寺尾さんの演技は、年を重ねるごとに深みを増しているようです。

父親役や重要な脇役など、さまざまな役柄をこなし、その実力は多くの監督や共演者から高く評価されています。

音楽活動も継続中

寺尾聰さんは、俳優業と並行して音楽活動も精力的に続けています。

2023年12月31日には、第74回NHK紅白歌合戦に出演。「テレビが届けた名曲たち」という特別企画で、名曲「ルビーの指環」を披露しました。これは、1981年以来、実に26年ぶり2回目の紅白出場となりました。

寺尾さんのライブ活動も盛んです。主な会場は六本木のAbbey Roadで、熱心なファンが多く訪れているそうです。

2023年12月25日には、新横浜プリンスホテルでクリスマスディナーショーも開催。ゆったりとした雰囲気の中で、ロマンティックな寺尾サウンドを楽しめるイベントとなりました。

さらに、2024年6月には東北地方でのライブツアーを開催。仙台と盛岡での公演で、これは実に42年ぶりの東北ライブとなるそうです。

寺尾さんの音楽活動は、俳優業の合間を縫って行われているため、ファンにとっては貴重な機会となっています。その渋い歌声と、年齢を感じさせない歌唱力は、多くの人々を魅了し続けているのです。

家族との充実した私生活

寺尾聰さんは、仕事の傍ら家族との時間も大切にしています。

現在の妻である星野眞弓さんとの間に3人の子供がおり、さらに6人の孫にも恵まれています。

1981年に再婚した寺尾さんは、娘1人と息子2人の3人の子宝に恵まれました。

特に長女が生まれた時のエピソードは印象的で、「お父さん大好きと言ってくれる子供に育てる」と語っていたそうです。この言葉からも、寺尾さんの子煩悩ぶりがうかがえますね。

寺尾さんは料理も得意だそうで、家族のために腕を振るうこともあるようです。

寺尾さんの長女は現在40歳前後と推測され、お孫さんたちは10代後半から20歳前後ではないかと言われています。

一般人のため詳細は明かされていませんが、寺尾さんを中心に温かな家族の輪が広がっているのでしょう。

寺尾聰のプロフィール

項目 プロフィール
名前 寺尾 聰(てらお あきら)
生年月日 1947年5月18日
年齢 76歳(2024年2月現在)
出身地 神奈川県横浜市保土ケ谷区
身長 176cm
血液型 A型
学歴 法政大学第二高等学校、文化学院卒業
職業
  • 俳優
  • ミュージシャン
所属事務所 寺尾事務所
家族
  • 父:宇野重吉(俳優)
  • 妻:星野真弓(元モデル・女優)
  • 子供:3人(娘1人、息子2人)
  • 孫:6人
主な受賞歴
  • 日本レコード大賞(1981年)
  • 日本アカデミー賞最優秀主演男優賞(2000年、2003年)
  • 紫綬褒章(2008年)
  • 旭日小綬章(2018年)

まとめ

寺尾聰さんの若い頃は、グループサウンズのバンド「ザ・サベージ」でベーシストとして活動を始めました。

しかし、短気な性格が災いして音楽活動は長続きせず、俳優への道を模索し始めます。

1968年、父である宇野重吉さんとの共演で映画デビューを果たした寺尾さんは、その後刑事ドラマで活躍。30代で歌手としても大ブレイクし、「ルビーの指環」が大ヒットしました

50代以降は、黒澤明監督作品への出演や日本アカデミー賞受賞など、名実ともに日本を代表する名優としての地位を確立。現在も精力的に俳優・歌手として活躍を続けています

寺尾さんは若手俳優の指導にも力を入れており、その姿勢は業界からも高く評価されています。